Thinking Out Loudの最近のブログ記事
That is not the question.
情と筋、固定票と無党派票、そして政党助成金。郵政造反組の復党”問題”は結局票の流れとカネ、すなわち私欲の胸算用でしかなく、そこには表向きのツジツマ合わせすらないように見える。
復党するかしないのか、それには全く興味はない。どういう考えで踏み絵を踏むに至ったのか、復党議員の声にこそ興味がある。
そしてそういう説明責任を感じない議員は自ら単なる票集めの歩ゴマに成り下がる一方で、そんな議員に票を集めてしまい、党に胸算用をさせてしまう我々有権者にも大いに問題ありと思う。
「共感する女脳、システム化する男脳」という本は是非読んでみたいと思うのだが、その前におのさんが自身の記事でこの本の中での「共感」の定義、そしておのさんの記事中の「共感する」の定義をわかりやすく記していた。有難う。
おのひろきおんらいん : 「どのように他の人の感情や思考を認知しているか」
確かに議論を行うためには皆が同じ定義を使って土俵に立たないと議論は成り立たないですな。良く聞か(ask)ないとダメと書いておきながららコレなんだから困るな。>自分
そう書いた上で、今回は本をまだ読んでいないことをいいことに(笑)敢えてそこで使われている言葉の定義そのものについて意見してみたい。
本では「共感する」ことと「システム化」することが相対する関係として定義されているそうだが、この関係付けが個人的にシックリしないのだ。なぜならば「感情を感じ取る」為にはいくら感覚的に反応する力が強い人でも、感覚だけはなく何らかの形で過去の経験や知恵(特に過去の経験)を論理的に反復して反応しているのではないかと思うからだ。だから自分の中で「共『感』」はその配分はともかく、感覚と論理両方を使って相手の思考を感じ取ることだと自分の中で無意識に定義していたのだ。これこそ感覚的なものなので自分自身もはっきりわからないが、そんな気がしている。どうでしょう?>「感覚的」な方々。
この勝手な定義を適応すると議論は「共感」対「システム化」ではなくて、「感覚主体で共感する」対「システム化主体で共感する」という言い方になり、自分としてはシックリくるのだ。そして「システム化主体で共感する」人は決して共感する「ふり」をしているのではなくて、主に論理を駆使して共感しているということになるのだ。そんな自分の定義を無意識に適応していたものだから「共感のふり」という表現に妙な不自然さを感じてしまったのである。
ところで「システム化主体で共感する」人が論理を駆使して相手の意図を汲み取ろうとする時、論理を駆使して反応を導き出した彼・彼女よりも「意図がわかんねー!!」と嘆く人間くさい姿の方が本当の彼・彼女を見るような(見せて欲しい)気がするのだが、当人にしてみれば果たしてどちらがより”本当の”自分なのだろう。「両方本当の自分だ。バカなこと聞くな」という「システム化する」人の反応が想像できるが。(笑)
この話引っ張り過ぎで申し訳ない。思考の記録の為にどうしても最後に書いておきたかったので。
共感性が強い人でも相手の意図を取り違えることはあると思う。また共感性の強い人だからといって無意識に正確に共感できるとは限らないのではないか。それは共感の強弱に関係ない話であり、そんな間違った仮定に基づいたが反応がなされないように、いや、仮定に基づいて反応しなくてもいいようにコミュニケーションの中で「聞く」こと、特にAskが大事なんだと思う。また共感性の強い弱いはそれ自体その人の個性であるから、それをわざわざエミュレートする必要はないんじゃないかという発想は楽観的過ぎるだろうか。共感性の強い人、弱い人それぞれの長所があるんだと思う。
鉄腕アトムの「心のエミュレータ」が結果を導き出す最終段階において、「相手が共感を求めていそうだったらそれまでの判定を覆して共感する」というロジックを組み込んでいるとしよう。自分にとってその鉄腕アトム(のエミュレータ仕様)は賢明かもしれないが、自分の本心(本来の反応)を必ずしも表に出さないヤツだという評価になるかも知れない。無論アトムは素直にプログラムに従っただけで、バグったわけでもないし、それは不誠実になれというフィルタ(気持ち)でもない。そして評価の良し悪しは自分がアトムに何を求めるのか、ということでも変わってくると思う。その挙動はアトムの個性(仕様)であり、評価する自分の主観も個性である。それには正解間違いなど当然ない。自分の場合、アトムには自分の意図をよく理解して欲しいと思う一方で、アトムがそれに対して本当にどう思っているのか、素直にに反応して欲しいし、自分もアトムに本心をインプットしていきたいと思う。結果的にアトムが共感してくれるならそれはスバラシイことではあると思うが。
コミュニケーションを円滑に進めるのも大事、でもコミュニケーションの目的は相互理解だと思うし、自分の場合、本心を語らず腹の探りあいをするのはアウトプットのみがすべてであるビジネスネゴシエーションだけで充分。(笑)それを言いたかったんだな。
こんなことを考えている自分がそもそも共感性が強いのか弱いのか、わからなくなってきた。(苦笑)
相手の発言(の意図)を聞いて、正確に理解して、それに対して自分が的確に反応する。
相手の意図を理解するために何を心がけているかは人それぞれで、その手法や意識は人によって異なって当然だと思う。たとえば自分の場合、「聞く会話」に重みを置いて理解を深める努力をしている、といった具合だ。
そうやって理解できたものを自分の中で消化して反応を形成する作業もまた人によって手法が異なるだろう。反応形成の得手不得手、意識や脳内ロジックの違い手法も人それぞれであろう。自分の心や感情をモニターしながら考えて反応する方法もありだ。ある特定の反応形成手法があざむきだとは思わない。
一方、上記過程を経て導かれた相手に対する反応として「共感できない」という考えが一旦自分の中で出た以上、それを素直に相手に伝えるのがコミュニケーションの見地から普通ではないだろうか。「共感するフリ」とは「共感できない」という考えを「共感する」と相手に伝えることであり、それはあざむきなとなるのではなかろうか。
共感性が強い人だからあらゆる物事にかならず共感するとは限らないし、たとえ相手が共感を求めていたとしても自分の中で共感できないことに対して自分を曲げることをするわけではないと思う。共感したフリをすることが、共感性の強い人をエミュレートすることだろうか。それは単に共感していないことを共感しているとしていることに過ぎず、やっぱり相手に対して自分を正確に伝えていないということにならないだろうか。まだ勉強不足なのかもしれない。
「聞く」ことと「反応する」ことは別なんだと思う。相手の言っていることを理解しながら「そうなんだ。」と相槌を打つといったことは「聞く」ことだと考えている一方で、「その通り」「でもね...」と共感する、反対するといった自分の意思を伝える行為は「反応」することとして考えている。だから共感は出来なくても話を聞いてあげることはできる。悩みや愚痴を聞いてあげると「聞いてもらうだけで楽になった」と言われることがあるが、自分はそれを言葉どおりに解釈している。悩みや愚痴を聞いて欲しい人は(かならず)共感してほしいのではなくて、まずは自分の話を聞いてもらうことを求めているのではないかと。悩みや愚痴を聞いてあげているものの、必ずしも共感していない自分はストレスの開放対象としてひょっとして役に立っていないのかな!?(笑)
自分は相手に自分をどう伝えるか、というコミュニケーションそのものに注目しているので脳内アルゴリズムの話とは違う議論なのかもしれない。ただ会話の進め方も脳のアルゴリズムに則って行なわれるはずなので脳の働き方には興味はある。
意思の疎通や会話の本質や目的について最近考えることが多かったのだが、「おのひろきおんらいん」でも「共感をエミュレーションするシステム化型の脳」というコミュニケーションに関連した記事が掲載されていた。皆がコミュニケーションについて考えてしまう季節なのだろうか。(笑)
おのひろきおんらいん : 共感をエミュレーションするシステム化型の脳
ない読解力で何度も記事を読み返して自分なりに消化した。共感を試みてみたのだが、タイトルの「共感をエミュレーションする」という表現がどうしてもひっかかる。「エミュレーション」という言葉の解釈が間違っているのかと思ったりしたが、
という文面を読んでおのさんの意図とこちらの解釈には相違ないと認識した。
確かに共感できないものに対して共感するふりをすればその場は平和に進むかもしれない。しかし相手は本当にそれを望んでいるだろうか?それでは必ずしもコミュニケーションの目的である意思の疎通は図られないのではないだろうか。「共感したふりをする」というのはコミュニケーションスキルというよりもネゴシエーションスキルに近い印象を受ける。それはコミュニケーションを意図的にある方向に誘導する為にビジネスや交渉事において戦略的に使ったり、恋愛成功マニュアルといった本に出てきそうな、ちょっと計算が入った手法というイメージを受けてしまう。ゆえに心を通わせたい仲間とのコミュニケーションにおいて「ふりをする」というのはどうなんだろう、と疑問を感じてしまうのだ。
ではコミュニケーションと「共感」についてどうあるべきか考えてみたが、いまいちきちんとした意見が出ない。相手の心情を理解してそれに共感できるに越したことはないが、共感するしないはやはりその内容によると思う。それよりも「心情を理解する」というステップの重要性につ最近考えていたところなのでついそっちに思いが行ってしまうのだ。(よって以降おのさんの記事内容とは違うトピックになってしまう。)
さて...
コミュニケーションにおいてより大事なのは「相手をきちんと聞き、理解する」ことだと思う。この当たり前の事が(自分自身を含めて)実はあまり出来ていないと感じることが多い。
コミュニケーションを求めてくる人は自分の思いや意思を伝えるためにやってくる。その相手に応じる場合、相手の発言の意図をきちんと理解しているだろうか。理解したと思い込んでいないだろうか。「聞く」という日本語は英語でlistenであったりaskであったりするが、readとは訳さない。聞いて理解するということはlisten and askすることであり、read (one's mind)ではないと思うのだ。
意思表示や発言は明快なものばかりではない。オブラートに包まれた言い方や、様々な修飾により主体がぼやけてしまっていることもある。感情表現となると表現も難しい。そもそも発想や考えが自分と異なる主観をベースに伝わってくるという難しさもある。もっと低レベルなところでは自分のようなボキャ貧もいる。(^^;)相手の心情や意図をきちんと理解するのは難しい。しかし努力することは可能である。断片的な解釈のまま相手を”理解”してしまっていないだろうか。理解を深めるための会話を怠っていないだろうか。askを忘れていないか。さらに、自分の言いたいことに重みを置くあまり、相手の言葉の趣旨にバイアスを掛けていないだろうか。
相手をきちんと聞いて相手の意図に応じてあげる、
これを双方が繰り返すことでコミュニケーションは成り立つ。この「聞く」ことこそ重要なコミュニケーションスキルなのではないかと思う。
聞くスキルに長けている人とはスムーズなコミュニケーションがとりやすいし、双方の意思もきちんと伝わる。聞こうという意思も伝わってくるので何よりも会話が楽しい。逆に双方が”聞かない”会話はお互い言いたい事を言い放つわりには相手の理解を得られない、ストレスフルなものとなる。それをコミュニケーションと誤解していることも少なくない。自分は決して聞くスキルに長けているとは思わないが、「聞く」を中心に据えた会話を随分前から意識して人と話すようにしている。それは果たして伝わっているだろうか、日々精進。
会話というのはドッジボールでもテニスの壁打ちでもゴルフの打ちっぱなしでもなく、キャッチボールでないとダメなんだと思う。それも自分が良かれと思ったところに投げるよりも、どこに投げて欲しいか聞いてからお互いのグローブめがけて投げる方がストライクの確率も上がる、その方が楽しい。意思の読み合いではなくて意思の相互理解として会話を行なう、こうだと決め付けられるよりも本当の自分と向き合って欲しい、それが会話相手が一番望むことだと思う。自分だってそう望むから。
実に当たり前なことに聞こえるが、その当たり前が難しい。ふと気がつくとそういう心地よいコミュニケーションに出会う機会は貴重になってしまっている。キャッチボールをするように、ゆっくり語り合う時間が少なくなったのかな。
それにしても皆こういう文章を書くのが上手いね、とここまで一気に書いてちょっと自己嫌悪気味。
最近英語に接することが多いのだが、改めて英語の面白さは「しゃべり」の部分にあると改めて感じている。
ポッドキャストで聞くCNNやABCニュースでのキャスターの語り口やインタビュー、Non-Japaneseとの食事や酒の場での”オフ”な会話、Overseasの相手とのメールでの”世間話”、そしてビジネスミーティングにおいて場をを和ませコミュニケーションを円滑に行なうためのジョーク、そういった英語の「しゃべり」の部分、「柔」なシチュエーションに魅力を感じる。
その面白さは単に言語としての英語力があるだけでは理解も発信できない難しさにあると感じる。ジョーク1つ言うにも、ユーモアのセンスはもちろん、相手の人種や文化を理解した上でネガティブジョークにならない配慮をしつつ、タイムリーに”かます”テクニックが必要だ。いや、本当は意識せずに自然に出てくるのが理想なのだが、これが難しい。アメリカ大統領のスピーチライターでさえ、冒頭で聴衆をcatchするジョークを考えるのがスピーチライティングで一番難しいと語っていた(インタビュー記事を読んだことがある)。そして、相手のジョークを理解して笑えるにもそのネタを理解する必要があるわけで、国(内)外な時事ネタ、日本が海外からどうみられているのか、に精通していることが要求される。そんな時事ネタを皮肉ったジョークに反応できなく、悲しかったことが何度もあった。
海外出張時、現地の人と食事をする際に”充実”したひとときを過ごすには現地の時事ネタ、政治経済から芸能ネタまで、”オフな話題”についていけるといけないでは楽しさが全く違ってくる。英語は完全に理解できても会話には全くついていけない、というトホホなこともあるわけで、文法や発音や読解力といったいわゆる「語学」だけではコミュニケーションは図れないことを痛感する。幸い今はインターネット全盛の時代、アメリカの色んなニュースサイト、もちろん芸能ニュースやアメリカ発のポッドキャストを頻繁に覗いているが、その理由の1つはそういうシチュエーションで「しゃべり」についていけるようにする為である。ちなみにパリス・ヒルトンなどは日本で名前が出てくるずっと前から知っていたのもそのおかげだ。(というのは余談だが。)
硬い文書では遭遇しないユニークな表現に出会えるのも「しゃべり」の魅力である。ニュースキャスターやコメンテーターの状況説明や解説を聞いていてふと「この場面でなんでこんな単語が出てくるんだ???」としばし考えた挙句、メチャクチャな描写だがなんと的を得た表現なんだ、と感心するわけだ。インタビューやスポーツニュース、辛口コメンテーターの言いたい放題、個人が発信するポッドキャスト、くだけた雰囲気であればあるほど面白い表現が飛び出てくる。そのたびに「そのセリフもらいっ、次どこかで使ってやるぞ!」となるわけだ。
教科書や参考書、readingとwritingの”勉強”では出てこないそういうクリエイティブで生きた英語に接することが出来る「しゃべり」こそ、英語コミュニケーションの面白さがあると思う。
My 2cents..
ABC Newsのポッドキャスト「Nightline」を聞いていた。
イギリスで起きた同時テロ事件の容疑者としてパキスタン系のイギリス人が挙げられた事で、イギリス国内ではパキスタン系住民への風当たりが厳しくなり、ギクシャク感が生じ始めているそうだ。またブレア首相は会見において「問題の深いところには国外要因がある。」とパキスタンへの責任追及ともとれる発言をしている。
それに対し、シャラフ首相はテロ撲滅に対するイギリスとの同調を表明しつつも、「パキスタンに対する一方的な責任転嫁」に対して不快感を示している。容疑者は生まれも育ちもイギリスである「イギリス人」であることを強調し、「問題は団体の活動を制限していないイギリスにあり、啓蒙活動を許すことでテロの温床を生んでいるイギリスにこも問題があるのではないか。」と反論している。(イギリスでは過激派団体の言論自由と引き換えに国内テロを起こさないという暗黙の了解がIRAの解体以降存在するということを聞いたことがある。)過激派思想の根絶をパキスタンに求めるブレアの言い分は理解できるが、それは手付かずになっている自国における”水際”阻止にも着手してこそ相乗効力を発するものではないだろうか。また今回パキスタンをその槍玉にあげたのは、容疑者のルーツがパキスタンにあったからではないのでろうか。(繰り返すが、彼らは生まれも育ちもイギリスのイギリス人なのである。教育も思想のインプットもイギリスで受けているはずなのだ。)容疑者がアフガニスタン系の人間やイラク人であったらどの国を責めていただろうか。イギリスにおけるパキスタン系住民に対する態度の変化、ブラジル人の容疑者誤認と射殺と”肌の色”が見解、発想や疑念に本来あってはならない悪影響を与えているような気がしてならないのだ。少なくとも国を統治する立場にある者がそのような影響を受けるとは考えたくない。
肌の色、その人のルーツで人を一括りにしたり個人を判断してしまう人間の悪しき習性は時を経ても治らないものだろうか。幼少の時期に矢面に立たされた経験があるのでその思いも強いのかもしれない。
