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愚痴は聞くもの?共感するもの?

相手の発言(の意図)を聞いて、正確に理解して、それに対して自分が的確に反応する。

相手の意図を理解するために何を心がけているかは人それぞれで、その手法や意識は人によって異なって当然だと思う。たとえば自分の場合、「聞く会話」に重みを置いて理解を深める努力をしている、といった具合だ。
そうやって理解できたものを自分の中で消化して反応を形成する作業もまた人によって手法が異なるだろう。反応形成の得手不得手、意識や脳内ロジックの違い手法も人それぞれであろう。自分の心や感情をモニターしながら考えて反応する方法もありだ。ある特定の反応形成手法があざむきだとは思わない。
一方、上記過程を経て導かれた相手に対する反応として「共感できない」という考えが一旦自分の中で出た以上、それを素直に相手に伝えるのがコミュニケーションの見地から普通ではないだろうか。「共感するフリ」とは「共感できない」という考えを「共感する」と相手に伝えることであり、それはあざむきなとなるのではなかろうか。

ただ,こんなことを考えているという事を伝えるのが相互理解のきっかけになるかもなとは思います.
そう、相手の意図に応じてあげられない時にはそう伝えるのが真のコミュニケーションとして適切な反応なのではないか。
共感性が強い人だからあらゆる物事にかならず共感するとは限らないし、たとえ相手が共感を求めていたとしても自分の中で共感できないことに対して自分を曲げることをするわけではないと思う。共感したフリをすることが、共感性の強い人をエミュレートすることだろうか。それは単に共感していないことを共感しているとしていることに過ぎず、やっぱり相手に対して自分を正確に伝えていないということにならないだろうか。まだ勉強不足なのかもしれない。
「聞く」ことと「反応する」ことは別なんだと思う。相手の言っていることを理解しながら「そうなんだ。」と相槌を打つといったことは「聞く」ことだと考えている一方で、「その通り」「でもね...」と共感する、反対するといった自分の意思を伝える行為は「反応」することとして考えている。だから共感は出来なくても話を聞いてあげることはできる。悩みや愚痴を聞いてあげると「聞いてもらうだけで楽になった」と言われることがあるが、自分はそれを言葉どおりに解釈している。悩みや愚痴を聞いて欲しい人は(かならず)共感してほしいのではなくて、まずは自分の話を聞いてもらうことを求めているのではないかと。悩みや愚痴を聞いてあげているものの、必ずしも共感していない自分はストレスの開放対象としてひょっとして役に立っていないのかな!?(笑)
自分は相手に自分をどう伝えるか、というコミュニケーションそのものに注目しているので脳内アルゴリズムの話とは違う議論なのかもしれない。ただ会話の進め方も脳のアルゴリズムに則って行なわれるはずなので脳の働き方には興味はある。

おのひろきおんらいん : 「感情はどこからくるのか,どこまで自分を認識できるのか」

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このページは、@nak(あ)がAugust 25, 2005 12:53 PMに書いたブログ記事です。

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